「インヴォカツィオーネ(祈り)」Invocazione,intermezzo

S.サルヴェッティ作曲

  シモーネ・サルヴェッティ(Simone Girolamo Salvetti  1870.1.30 Breno-1932.12.10 Darfo)

 ジローラモ・シモーネ・サルヴェッティはアンドレアとジュリア・カモジ(Andrea e di Giulia Camozzi,)の息子として1870年1月30日にイタリアのロンバルディア州ブレシア県ブレーノ(Breno)で生まれ、作曲家・音楽教師、吹奏楽団のマスターとして、オルガン奏者としても才能を発揮した。若い頃は自由奔放な生活を送っていたようだが、パルマの音楽院ではそれまでの生活を改善し、研究熱心であったという。優れたオルガン奏者として地元のいくつかの合奏団を指導・指揮する収入で、伝統や習慣にこだわらない自由な生き方はカモニカ渓谷地方(ヴァル・カモニカ Valle Camonica)で知られており、尊敬されていたという。カウボーイハットとステッキがトレードマークのようだ。

卒業後の活躍

 ピアノ・オルガンと作曲法を学んだサルヴェッティは卒業したパルマ国立音楽院でピアノ教師を勤めた。プレクトラム音楽の作曲により1904年に2度の名誉卒業証書を受けている。1904年、サン・マリノ近くのマルシアーノ・デ・ロマーニャ(Marciano di Romagna)でおこなわれたマンドリン作曲コンクールのマンドリンオーケストラ・宗教曲部門で名誉金賞を得、1905年のイル・マンドリン主催の作曲コンクールで親愛なる友人、ピエロ・グレッピ Piero Greppi"に捧げられた間奏曲『海の囁き』(潮騒:Mormorio del mare,intermezzo)が最優秀賞を受賞し広く知られるようになった。また、同じ年にトリノで開催された大会では96人の参加者の中で唯一の金メダルと3つの銀メダルを獲得している。同じく1905年、カポ・ディ・ポンテ(Capo di Ponte)地域の音楽連盟が設立され、サルヴェッティはカポ・ディ・ポンテ の吹奏楽団を創設、20世紀の初めにマンドリニスティコ・ブレーノ(Mandolinistico Breno)を設立。ブレーノ、エージネ、ダルフォの合奏団指導などで活躍した。

 1914年8月に第一次世界大戦が勃発、イタリアは連合国に加盟し1915年5月24日オーストリア=ハンガリーに宣戦を布告、戦争に巻き込まれた。

 マンドリンの演奏は戦争に行く兵士たちにとって戦争による苦しみを和らげる大きな助けとなっていることから1916年にはこの目的のためにトレンシアで「アルモニアArmonie」を編成している。

 第一次世界大戦後の1920年代にカモニカ渓谷地方のダルフォDarfoの他、Breno、Esine、Capodiponteの吹奏楽団の指揮をしている。1922年にはアントニオ・アルケッティ(Antonio Archetti)の詩によるトナーレの賛美歌 Inno al Tonaleを作曲し、ボローニアのイル・コンチェルト誌に発表,、イタリアで初のラジオ放送団体 EIARの放送に乗った。(尾崎譜庫の解説等を参照)

作品の特徴

 サルヴェッティの作品のタイトルは、風光明媚な山や渓谷、湖、楽しい仲間、兄弟などが多い。たとえば彼の最愛のカモニカ渓谷、ロマンチックなイッセーの湖、堂々としたブレーシアの城、トナーレ山の夏の夕暮れ、など、地元の人達はそれらの魅力的な風景を思い起こすことが出来る。

 彼は地元の画家ノダリGiovan Battista Nodariと親密な関係があり、作品の多くの創作に影響を与えている。(絵はノダリによるアルベローネの風景)

  プレクトラム音楽作品ではマンドリンとギターの2重奏、2つのマンドリンとギターまたはピアノのためのトリオ、2つのマンドリン、マンドラ、ギターの四重奏、マンドリンオーケストラ曲など約100曲を残している。また、彼はサルトリ、マネンテ、ファルボ、アマデイなどと友好関係にあり、サルヴェッティの作品は彼らから高い評価を得ている。

 また、地元カモニカ渓谷で起こった社会的、政治的、文化的変化をテーマとした曲も多い。例えば1923年のスローワルツ「ドポラボーロ」(Slow Waltz Dopolavoro)は憂鬱な雰囲気だが、これはマンドリン合奏などの自由団体が閉鎖され、継続するためにファシスト組合OND(オペラ・ナツィオナーレ・ドーゴラボー  Opera Nazionale Dopolavoro )に組織されたときの作品である。

 作品の一部には詩が書かれていて、文学的才能を表している。

 主な作品は1967年の雑誌「マンドリン Il Mandolino」にカタログが掲載されている。幻想的序曲「山嶽詩」(Ouverture fantastica Poesia Alpestre)がよく取り上げられている。

(画像はBRENO方面からBRESCIAに至る鉄道地図 トナーレ山は最も右上)

 

  サルヴェッティの楽譜は”酔っぱらいが書いたようだ”と言われていて、音符や調性の間違いが多いようだ。(画像参照)

 最も充実した時期に書かれた「山嶽詩」や "松林の恋人たち" に捧げられた「松林の木陰~午後の平穏~」(Fra l'ombre della pineta,idillio)のゆっくりしたロマンチックな曲想はサルヴェッティの最愛の女性作家ルチア・ロメリとの思い出を描いている。 

なお、彼の自由奔放な行動が非難され、日常生活が困難な時にはPescarzoの教区教会に叔父のドン・フランチェスコ牧師と一緒に避難したという。(Orchestra di mandolini e chitarre «Delfini d’oro», Banda Musicale Cittadina di Darfo Boario Terme等参照)

インヴォカツィオーネ ”祈り”(Invocazione,intermezzo)

 間奏曲インヴォカツィオーネはダルフォの吹奏楽団のマスター時代に作曲され、マンドリン雑誌イルプレットロ( Il Plettro)に1924年には4重奏で、1932年には合奏曲として掲載された。緩(とても)・急(やや)・緩の3部形式による静かな宗教的旋律の曲。調性はヘ長調、ハ長調、そして ヘ長調に戻る、明るく穏やかな曲想だが、音程や指定された音量の起伏は大きい。Invocazioneは日本語で心願、訴えなどの意味だが「祈り」という訳が一般に使われるようになっている。

  サルヴェッティが亡くなって5年後のイル・プレットロ1937年9月号報道欄に、トリノ近郊パヴィアのマンドリン・オーケストラが、合宿先のシチリアのメッシーナ郊外、サリーチェの温泉で演奏会を開き、ヴェルディ、チマローザ、マスカーニ、プッチーニの曲と並んで、故サルヴェッティの作品「祈り」と「舟遊び」を、祈りを込めて演奏したとある。(オルケストラ“プレットロ”東京(OPT)資料室等を参照)