「メリアの平原にて」ジュゼッペ・マネンテ 作品123 (1909)

Giuseppe Manente,

マネンテの生い立ち

 ジュゼッペ・マネンテは1867年2月3日、イタリアのベネヴェント(Benevento)県サンニオ(Sannio)地方のモルコーネ(Morcone)にソレントとグリオネージの吹奏楽団の指揮者であるリボリオ・マネンテを父として生まれた。その父から最初の音楽教育を受け、グリオネージの吹奏楽団でトランペット奏者として活躍した。王立陸軍学校付属の軍学学校卒業の後、ナポリのサン・ピエトロ音楽院、マドリード音楽院、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミアに学ぶ。ナポリではガゥティ、グァールロ、デ・ナルディス(De Nardis 1857-1951)に作曲、和声、対位法を、マドリード音楽院でエミリオ・セラーノにローマではデ・サンクティス(De Sanctis Cesare 1824-1951)に師事。

卒業後の活躍

 1889年卒業後は歩兵第60連隊軍楽隊の指揮者に公募で就任した。 
 1918年にはアメリカ、フランス、イギリス、ベルギーで戦勝記念の演奏旅行を行い、成功を収めた。1921年から1924年までエジプトのフアード1世の軍楽隊長を、1924年にローマに財務省防衛隊の吹奏楽団が創設されると音楽監督に就任し、1932年に引退するまで務めた。またルッカ、ペーシャ、モンテカティーニ・テルメの市民吹奏楽団で指揮をし、各地の音楽雑誌に評論が掲載された。作曲は100曲以上の吹奏楽曲、35曲以上のマンドリン合奏曲、ピアノ曲など生涯に800曲以上を残している。日本では中野二郎により吹奏楽曲からマンドリン合奏曲に編曲されたものも20曲近くにのぼる。

「メリアの平原にて」 Sulla Piana della Melia Op.123

 「メリアの平原にて」は、1909年ミラノの Il Plettro 誌主催の第2回作曲コンクールでアマデイの「海の組曲」に次いで第2位(実際は2位のない3位)に入賞したOverture (序曲)であり、翌1910年同誌に掲載され、広く知られるようになった。英語にすると「On the Plain of Melia」だが、邦題では「メリアの平原にて」とか「メリアの平原に立ちて」と訳されている。
 当初マンドリン合奏用の楽譜であったが、1911年には作者ジュゼッペ・マネンテ自身により改訂を加えられ、吹奏楽譜として出版された。吹奏楽版はマンドリン合奏のIl Plettro版に比べ調性がハ短調に移されている他、曲の最後Vivaceの小節が一部削除されているなどの違いがある。
 日本で現在主に演奏されている楽譜には中野二郎が吹奏楽版をベースに改訂部分をマンドリン譜に付け加え、低音楽器としてマンドローネおよびキタローネを、また打楽器として、大太鼓、小太鼓、シンバルが書き加えられている。

演奏時間

 約8分

アナトリアの「メリア」

ギリシア神話と大発掘時代

 1870年ハインリッヒ・シュリーマン(Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann)による古代都市トロイアの発掘、1898年のウィーガンド(Wiegand)によるプリエネ、ミレトス、サモス島といった小アジア西部(アナトリア)の発掘など、ギリシア神話が歴史上の事実となったこの時期は大発掘時代と呼ばれている。

 ギリシア神話ではメリアはオケアノスとテティスの娘でトネリコの木に宿る神。初代アルゴス王のイナコスと結婚した。なお、古代ギリシアで槍の柄はトネリコの樹を用いてつくられていた。

モーツァルトの最初のオペラ 「アポロとヒアチントゥス」 K.38にも登場する。「アポロは突然羊飼いに姿を変えて現れ、ヒアチントゥス(Hyakinthos)の妹メリアと結婚したいと言い出す」・・・メリア は当初登場していなかったが、オペラ上演にあたって台本作者が書き加えたようだ。

古代アナトリアの歴史
 BC8~7世紀、エーゲ海沿岸ではイオニア人が植民市(ポリス:都市国家)を作っていた。紀元前714年頃、ギミッラーヤと呼ばれる集団がウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめる。また遊牧騎馬民族のキンメリア人がリュディア王国をはじめ小アジアの大部分を侵略した。BC700年 にはサモス、ミレトス、プリエネ、およびコロフォンの連合によってアナトリアの都市国家メリアが破壊される。ギリシャ神話でメリアは女神なので、古代メリアの国は美しかったと思われる。
 その後リュディア王国メルムナス朝の始祖ギュゲス王がスミルナとミレトス一帯を侵略した。その息子アルデュスがプリエネを陥落した時には、既にコロフォンもリュディアのものになっていた。
 このようにBC8~7世紀の小アジア(アナトリア:現在のトルコ西部)では,覇権がめまぐるしく交代した。

 このポリス・メリアはトルコの西の端、エーゲ海のサモス島に面しミュカレ山を背にした海岸にある。

メリアの平原と古代メリアの戦い

イタリアのメリアと作曲

 イタリア南端レッジョ・カラブリア州にいくつかあるメリアのひとつが「メリアの平原」の場所の定説となっていて、マネンテもここに行ったことがあり、作曲のインスピレーションを得たようだ。なお、シチリアのメッシーナ州にも複数のメリアがあり、ギリシャ人たちは紀元前からこの地方の海岸地域に盛んに移住し、都市を築いた。これらのメリアは破壊された古代メリアを原郷とする人たちの町なのだろう。

古代メリアの戦い

 マネンテ作曲の「メリアの平原にて」のテーマは発掘された古代遺跡から歴史的事実となった古代都市国家メリアと連合軍の激しい戦いをあらわしたのだと思われる。中間部は平和な時代のメリアを思い描いたと考えられ、シベリウスのフィンランディアを彷彿とさせる。フィンランディアは1900年7月2日にヘルシンキで発表されるや、帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にするなど、センセーションを引き起こした曲であり、メリアの平原作曲に当たり影響を受けた可能性がある。(知久幹夫)

アナトリアと教会旋法

 余談だが教会旋法はリュディア旋法・フリギア旋法・ミクソリディア旋法・ エオリア旋法などアナトリアの名称が用いられ、ドレミファソラシドがイオニア旋法と呼ばれている。図は古代アナトリアをあらわす地図。(Academia.edu:学術論文共有サイト Alexander Herda氏の論文等を参照)